どうも。masa☆くるぷぴぃ(@masataro_2525)です。
今日は通院日でした。
a1cは6.0%。自分に合格をあげます。
しかし課題も山積。トライアンドエラーで毎日少しずつ調整して行こうと思います。
さて今回は自分をつくっていくための思考法。
かつてより私は「自分とは何か」と考えています。
「自分とは何か」という疑問。
「自分とは何か」と考えるときは、過去の自分を分析している感覚です。
「過去の自分」つまり「すでにつくられている自分とは何か」を考えています。
自分とはすでにつくられている自分だけではなく、これからつくられていく自分も自分です。
(自分って言いすぎて何が何かわからなくなっていたらごめんなさい(笑))
すでにつくられている自分とこれからつくられる自分がある。
今回は、これからつくっていく自分について考えていきたいと思います。
稲盛和夫氏の生き方に、
「どのような自分をつくっていくか」
のヒントが書かれていたのでシェアしていきますね。
では、早速!!
自分をつくるのは自分自身。
と言っても、どうしていけばいいのかなかなか分からない。
そんな時は「心」に焦点を当ててみます。
世間には高い能力を備えながら、心がともなわないために道を誤る人が少なくありません。(Via;23頁)
「才子、才に倒れる」という言葉があります。
この言葉通り、才覚に溢れた人はそれを過信して良からぬ方向に進んでいくことがある。
そのため、その才覚を正しい方向に導く羅針盤が必要になります。
その羅針盤が、理念や思想、そして「哲学」なのです。
そういった哲学が不足し、人格が未熟であれば、いくら才に恵まれていても、せっかくの高い能力を正しい方向に活かしていくことができず、道を誤ってしまいます。(Via;24頁)
この話は、私のような凡人には関係のないのかと言われれば、そうではありません。
人はそれぞれ、他の人が持っていない素晴らしいものを持っています。優しさ、真面目さ、ユーモアがあるなど様々。
その「才」を生かすも殺すも自分次第だという視点をもつことが大切です。
自分しか持っていない、かけがいのない「才」を、誤った方向に渡すのはモッタイナイ。
そのために「哲学」が必要なのです。
この人格というものは「性格+哲学」という式で表せると、私は考えています。人間が生まれながらに持っている性格と、その後の人生を歩む過程で学び身につけていく哲学の両方から、人格というものは成り立っている。(Via;24頁)
哲学という根っこをしっかりと張らなければ、人格という幹を太くまっすぐ成長させることはできないということです。
では具体的にどのような「哲学」が必要なのでしょうか。
稲盛氏は「人間として正しいかどうか」ということを言われています。
うーん。とてもシンプル。
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」もそうですが、
人間は当たり前のことを見落としがちです。まず自分の足元を見ることから。
プリミティブな考え、倫理、道徳ということが大切なのでしょう。
最近、シンプルなところにこそ重要なヒントが落ちているのだと強く感じます。
人間として正しいかどうかということは、
この「哲学」を持って、人格をつくっていきたいです。
素晴らしい人生を送るためには、「心に抱く思いによって人生が決まる」という「真理」に気づくことが大切です。(Via;38頁)
自分を決めるのは、自分しかいないということ。
人間は周りに惑わされて、自分の可能性を自分で狭めてしまうこともあります。
「絶対に無理だ」「才能がない」こんな心のない言葉に ⋯。
そうならないためにも、心に思いを抱くことが必要です。
ではどんな「思い」が必要なのでしょうか。
「善き思い」を持つ。
善き思いを持てば、それが善き力をなって、善き結果をもたらす。
一方、邪悪な思いを抱けば、それは邪悪な力となって、悪しき結果を引き連れて返ってくる。
幸福を望んで生きていくためには、「善き思い」をベースに日々を過ごしていく必要があるということです。
人間はもともと生きていくために、欲望や怒り、愚痴を持つようにつくられています。(Via;40頁)
しかし、そうはいっても私は聖人君子(せいじんくんし)ではないので、「善き思い」だけで心を満たして生きることは難しいです。
邪悪な思いを持たないということは、ほぼ不可能です。問題なのは、邪悪な思いが過剰であること。
できる限り邪悪な思いを抑えて、少しでも善き思いが湧き出るようにすることが大切です。
「そんな思いやりに満ちた心などと言っていて、厳しいこの社会をわたっていけるのか」と、疑問に思われることもあるでしょう。そうではありません。善き心こそが、強大なパワーを持っているのです。(Via;41頁)
「世のため人のため」という純粋な思いこそが、人がもつ強大なパワー。
人間は、「人のため」に行動した時、心が抱えているストレスが軽減します。
「人の役に立てた」と実感することが自己肯定感を高めるからです。
つまり、世のため人のために「善い思い」「善い行い」をすることが、結果として自分自身の自己肯定感を高め、幸福感を感じるのです。
反対に、自分のために「邪悪な思い」や自分の気持ちを発散するために他人に「暴言」を吐いたりすると、結果として自身の自己肯定感を下げてしまいます。
暴言や愚痴は一時的な麻薬のようなもの。
その言葉を発して、一時的に自分が気持ちよくなっているだけです。
長い目で見れば自分の「心」は
「なんであんなことを言ったんだろう」
「そんな自分はみっともない人間だ」
と自分自身で気づき、結果的に自分の気持ちが沈んでいきます。
暴言や愚痴は他人も自分の傷つけます。
「善い思い」を持って幸せを感じながら生きていきたいものです。
「善い思い」を持って前向きに生きることで幸せを感じることができる。
うん、それはわかった。では
そもそも幸せとはなんなのでしょうか。
稲盛氏は、幸せとは主観的なものだと言っています。つまり、他人の幸せを自分が決めることができないということです。
例えば、懸賞で特賞のハワイへの旅行券が当たったAさんとBさん。
Aさんは、つい先日ハワイへ旅行したばかりだったので、特賞より1等賞のルンバが欲しかったと言っています。
Bさんは、ハワイに旅行することが夢だったので、とても喜んでいます。
客観的に見れば、「ハワイ旅行が当たったんだから幸せじゃないか」と思うかもしれません。
しかし、人間の幸せは主観的です。他人が人の幸せを決めることは不可能。
このように、幸せは個人によって変わる、主観的なものなのです。
人間には、108つの「煩悩」があると言われています。
この煩悩が人間を苦しめる元凶だと、お釈迦様は説いておられます。またその煩悩の中で最も強い煩悩が3つあります。
この3つの煩悩を「三毒」といいます。
先ほど同様に、私たち人間は煩悩を持たないなど不可能。
ここで言いたいのは、「煩悩も過剰であってはならない」ということです。
努力して煩悩を抑える。
そうすれば人間の心の奥底にある、美しく優しい心が出てくるのです。
世界的に見ると日本は「豊かな国」と言えるでしょう。
しかし、時に私たちはその豊かさを実感できないこともあります。
なぜでしょうか。
すでに手に入れた豊かさは棚に上げ、さらに他のものを求める。客観的な豊かさがあると信じ、自分には「何かが不足している」と常に不満を抱いている。だから「豊かさ」を実感できないのです。(Via;86頁)
豊かさとは、個人によって異なる主観的なものです。
そのため今に「不足を感じる」習慣が着いてしまえば、どんな豊かな状況になってもその豊かさに気づくことができない。
それどころか、「現状が不足している」と感じるため、人間はさらに他のものを求めると行った傾向があります。
今に「感謝」すること。
今があって未来があります。
今がどんなに幸せなことか気づくことができれば、その「豊かさ」にも気づくことができそうです。
「足るを知らない」とは
「利己」にとらわれているということです。利己、つまり「自己の欲望」は放っておけば際限なく肥大化します。その限りない「自己の欲望」を満足させようとする人は、自分が損か得かを判断基準とします。(Via;87頁)
利己(自分の利益だけを考えること)にとらわれない、正しい判断基準や価値観をもつ。
全てが繋がっています。
この中の1つでもかけてしまうと、ボタンのかけ違いのように全体が少しずつずれていきます。
1つ1つは小さな歯車かもしれませんが、小さな歯車も回し続ければ大きな力になる。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
今回は稲盛和夫氏の『「成功」と「失敗」の法則』から、私たちの「心」に繋がる考え方を紹介しました。
「世のために人のため」
カナリ印象に残っています。
今まで散々人に迷惑をかけてきた私。
今後は人の役に立てるような人間になれるように、日々研鑽していきます。
というと、恩着せがましいのでその野望は「心」の中にしまっておきますね(笑)
未来の自分をつくるためには
今この瞬間から。
少しでも良かった、役に立った、と思ってくださった方は本記事のシェア、よろしくお願いします。
それではまた。
いつも誰かのお陰様☆
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