あなたは人に優しいですか?
どうも。masa☆くるぷぴぃ(@masataro_2525)です。
昨日、一昨日と記事の更新ができなくて申し訳ございませんでした。
Twitterをフォローしていただいている方は、お分かりかもしれませんが、少し体調を崩していました。
さて今回は、ダライ・ラマ14世の言葉から学び、自分の思考の種類を増やして、優しい人になろう。ということです。
(※以下ダライ・ラマで統一)
まずダライ・ラマとは。
ダライ・ラマは、チベット仏教のゲルグ族の・・・。
はい、難しい話はやめましょう。
一言で言うとチベット仏教の最高位。その14世です。
1989年にノーベル平和賞を受賞しました。
では、早速ダライ・ラマの思考の世界へ飛び込んでいきましょう。
苦しい時、悲しい時の考え方
皆さんは、苦しい時や悲しい時どうしていますか?
かつて私は、「自分の問題なのだから、自分1人で解決しなければならない」そう思っていました。
しかし自分1人で考えで行動しても、苦しいことや悲しいことが解決するどころか、むしろ悪化することが多かったです。
すべての出来事は、相対的なものです。そこには必ずさまざまなな側面があります。視点を変えて、問題を眺めてみることです。困難に直面した時にそれがとても役に立ちます。(Via:11頁)
相対的とは、他のものごととの関係の上で成り立っていると言うことです。
対義語は絶対的です。
仮にあらゆる出来事が「絶対的」なら、世の中は絶望的です。
しかし、すべての出来事は他との関係の上に成り立っています。つまり、相対的なのです。
今の考えでは、苦しい、悲しいと感じても、視点を少し変えるだけで出来事への見え方が劇的に変わります。
困難な時、それは、人の心を育てる最良の時です。(VIa:15)
困難な状況に直面した時、その困難を解決するために真剣に立ち向かうことで、解決のための良い方法が浮びます。
苦しい、悲しいと思うのは、困難に立ち向かっていない最大の証拠。困難に負けている、もしくは逃げているのでしょう。
解決したいと思えば、その方法を考えることに精神を注ぎます。精神を注いでいると苦しい、悲しいと考えている暇などありません。
だから、苦しいとか悲しいという感情が生まれない。
私自身、1型糖尿病(IDDM)と診断された時「どうして自分が」と絶望を感じました。
そしてその困難(病気を発症したこと)を解決しようとはせず、逃げていました。
病気を宣告された時、頭が真っ白になる気持ち、わかります。
しかし、1つ1つの問題を地道に解決していくしかありません。
「悩んで苦しんでばかりいないでマエヲムケ」
と、3年前の自分に教えてあげたい。
「どうすれば、うまく血糖値コントロールできるだろう」と考え、その解決に向かってトライアンドエラーで修正していく。
病気に限らず、恋人に振られた、不慮の事故で家族を失ったなども同様です。
苦しいです、悲しいです。
しかし、それこそが成長のチャンス。
自身の気持ちの解決方法を考えることに精神を注ぎましょう。すると、あら不思議。
人生とは何か
ダライ・ラマにとって修行とはなんですか?
無力さを噛み締めながら、毎日を生きること。それが、私の修行です。(Via:41頁)
彼の修行と私たちの人生は、重ねて考えることができると思います。
毎日、自分の無力さを感じて生きること。
この1文を読んで、ギリシアの哲学者ソクラテスの「無知の知」という言葉が頭に浮かびました。
いかに世の中が自分の知らないことばかりか、そんな何も知らない無知な自分認める。
ダライ・ラマの言葉は、まさに無力であることを認めることと重なります。
しかし、現代ではどうでしょうか。
「私は偉い」「私はなんでも知っている」と過信している人が多く存在するように思います。(もちろん自信があることはいいことだと思いますが)
そして他人に対して、偉そうな態度をとったり、驕り高ぶったりする人の多いこと・・・。
そういう人に、「もう少し他人に優しくしましょうよ」と提案しても、「私は優しくしている。相手が甘えているだけだ」とかね・・・。
つまり、そう言った人は自分がいかに無力で、無知かを認めていないのです。(正しくはプライドが高すぎて認めたくない)
自然に比べれば、人間がいかに無力であるか、納得していただけると思います。そして、宇宙と比べれば人間はもっと無力なのです。
自分の無力・無知を認めることで、他人を尊重できる優しい人に一歩近づけそうです。
ただし、その気持ちを逆手にとって悪用する人たちもいるのでご注意を。
真実、事実の重要さ
怒っている人に、売り言葉に買い言葉はイケマセン
心の平和を妨げるもっとも大きな障害は、怒りと憎しみです。怒りにとらわれると物事がはっきりとわからなくなります。真実が見えなくなってしまいます。それは、自分で自分を苦しめてしまうことです。(Via:43頁)
怒りには、真実を見えなくさせる作用があります。
そして真実がわからなくなると、建設的な話し合いができません。各方向からの一方的な意見の押し付け合いになってしまいます。
それでは、その場はどうにか争いが治ったとしても根本的な解決になっていません。そう、モヤモヤだけが残ります。
友だちでも、家族でも、国家間でも、良い関係を保とうと思うなら、相手の間違いをはっきりと指摘することが必要です。長い目で見ればそのほうが、お互いのために役立つのです。(Via:50頁)
私は、親しければ親しいほど相手に厳しく言ってしまいます。
ダメなものはダメ。やってはいけないことはいけない。
これは当然のことです。人によって態度を変えるなんてことは言語道断。
しかし私のそれは、喧嘩ではありません。事実に基づいての建設的な意見の交換です。
否定するのではなく、より良くなりために共に考えるのです。
何でもかんでも、「うん」「そうだね」は本当の優しさではない。
その場では良いかもしれませんが、ダライ・ラマが言うように長い目で見れば、相手の役に立つのです。
親しい人に意見を言うことは、嫌な顔をされるかもしれません。ですが、いつか相手のためになればそれでいいと思います。
それが本当の優しさ。
あの時「ありがとう」と言われた時の嬉しさはなかなか気持ちのいいものです。
おわりに
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ダライ・ラマの言葉を通じて、出来事に対しての見方、考え方の種類を増やし、優しい人になろうということでした。
完璧な人間などいません。
みんな1人1人得意不得意があります。
だから協力して、共生していく。
そのために人に優しく。
人間は無力である。人生とはその無力さを噛みしめながら毎日生きること。
やっぱり生きることは、とても苦労すること。
そう思って終わりではなく、より良くいきていくために困難を解決していく方法を精一杯考えて、行動していく。
それが人生なんだ。と。