習慣は、ある意味、とても怖いものといえます。「はじめは人が習慣をつくり、それから習慣が人をつくる」(Via;19-20頁)
枡野氏は、習慣はとても怖いものだと言っています。なぜ習慣が怖いものとなるのか?
それは、習慣とは知らず知らず、無意識的に行動することを指すからなのです。良い習慣が身についているのなら良いことです。
しかし、もし悪い習慣が着いてしまっていたら、無意識に悪い行動をとってしまっていることになります。悪い行動をしたい人なんていませんよね。
そのため、良い習慣を意識的につくることが大切なのです。意識的に行動しないと、習慣にはなりません。
では意識的に習慣化するためにはどうすればいいのでしょうか。
一言で言えば「行動しよう」ということです。思い立ったらすぐに行動に移そう。そうすれば何か変わる。
行動力を高めるための要諦は、スピードと言うより「スタート」。(Via;28)
スピードなんで考えなくていいのです。スピードは、スタートしていることが前提です。止まっている時のスピードは0です。
「思い立ったが吉日」と言う言葉があります。吉日とは、何かをするのに縁起のいい日。思い立ってから行動するまでの時間を、限りなく短くするということです。
禅には「禅即行動」という言葉があるそうで、何よりも「行動」を重視しています。
禅では何より「行動」を重んじています。そして、それをそれをひたすら「続ける」ことが修行なのです。(Via;29頁)
まず行動する、そして辛くても苦しくても継続する。はじめは苦しく感じていてもそれが、10日、20日と続けていくうちに、徐々に習慣化されていき、辛さが和らいでくる。
そして根気強く継続して、100日がすぎると苦しさなど感じないようになるそうです。ここでその「行動」が習慣化されます。
100日続けられれば「考える前に自然に身体が動くようになる」のです。(Via;30頁)
辛くても苦しくてもまず100日続けてみる。そうすることで習慣化されていくのです。そうか、まず私もこのブログ更新を100日続けてみよう。
皆さんは人の目が気になりますか?乗っている車、通っている学校のレベル等、人は他人と比較して、勝敗をつけて一喜一憂しています。
そんな私も、周りの目が気になって仕方がない人間の一人です。無意識に心のどこかで他人と自分を比較している気がします。これは他人と比べるという悪い行動習慣が習慣化されているからかもしれません。
「禅」には、こんな言葉があるそうです。
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」その意味は自分の足元を見つめなさい、ということです。足元をしっかり見つめて、そこでやるべきことをやる。大事なのはそこです。(Via;46頁)
なるほど。確かに今自分がすべきことは、自分の足元を見ないと見えてきませんね。
大切なことは自分の足元を見ることです。それなのに、他人の足元ばかり見ていては、自分がやるべきことが見えてきません。
私はいつも「本当の自分とは何か」を考えています。「脚下照顧」は「本当の自分とは何か」を考える上で、とても重要になる考え方なのかもしれません。
自分の足元を見て、「お、昨日より少し良くなった」と感じられればそれでいいのです。大切なことは昨日の自分と比べて、半歩でも前に進むことなんでしょうね。
皆さんはいい人になりたいですか?「いい人」という言葉は、一見すると響きの良い言葉です。
しかし「いい人」とは、具体的にどんな人のことでしょうか。その定義をあげるとキリがないと思います。そして「いい人」の定義は人それぞれなのです。
例えば、とても几帳面なA部長がいるとします。Bさんは、A部長をきっちりしていて真面目でいい人だなと思っています。しかしCさんは、A部長を細かくて面倒な人だなと思っています。同じ几帳面でも、見る人が変わればA部長の評価は変わります。
他者の評価は不安定です。そんな不安定な他人の目に良く映ろうとしていると、おそらくいつか本当の自分を失います。自分はただの抜け殻になります。
だからいい人でいる必要などない。本当の自分でいればいい。
禅語に、「露」というものがあります。文字どおり、あらわなこと、どこにも包み隠すことのない自分が表れている、ということです。禅は「露」で生きることの大切さを教えています。(Via;133頁)
包み隠さずに自分を表現し、自分の評価は他人にお任せする習慣。この習慣が身につけば、周りを気にして行動できないということが無くなります。
そればかりかどんどん自分を表現していける様になっていきます。その頃には、行動力が格段にアップしています。
本当の自分がしたいことをする。「他人にいい人」になるのではなく、「自分にいい人」になる習慣をつけていきたいですね。
私が大切にしている言葉に「いつも誰かのお陰様」という言葉があります。
人は一人で生きていくことなどできません。常に陰で支えてくれている人がいるから、今の自分が存在します。
今の私は両親がいたので存在しています。両親がいなければ、私は生まれていません。そもそも人は、生きていることそのものがお陰様なのです。
この本には、そんな私の考えとぴったりの言葉が書いてありました。
「諸法無我(しょほうむが)」仏教の根本をなす言葉です。その意味は、あらゆるものは’’かかわり’’の中で成り立っている、関係の中に存在している、ということです。(Via;184頁)
「諸法無我」。この言葉にはとても納得させられます。
自分は関わり合いの中で存在している、他者がいなければ自分という認識すらない。他者がいて初めて自分が存在します。だから、常に周りのあらゆる人、モノに感謝です。
常に「いつも誰かのお陰様」と思える習慣が身につけば、本当の意味で優しい人になれるかもしれませんね。
ここまで長文をお読みいただきありがとうございました。今回は、曹洞宗住職、枡野氏の「禅」の考え方を紹介しました。
この本を読み終えて、習慣がいかに大切かを再確認させられました。
この3点を意識して習慣化していこう。なんだか禅について興味が湧いてきたなあ。
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それではまた。
いつも誰かのお陰様☆
【引用・参考文献】升野俊明(2016)『考える前に動く習慣』三笠書房 230頁